東京高等裁判所 昭和58年(う)1437号 判決
所論は,要するに被告人は本件犯行当時心神耗弱の状態にあったものであり,この点を認めなかった原判決は,事実を誤認し,かつ法令の適用を誤っており,その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから,原判決は破棄されるべきであるとし,その理由として,被告人の経歴及び日常の行動からすると,被告人は,いわゆる酒乱にとどまらずアルコール中毒性の精神病に罹患しているか,あるいは精神分裂病等の病気が基礎にあって,それが過度の飲酒をともなって幻覚・妄想となって現われているのではないかとの疑いが濃い,と主張する。
そこで,検討するに,原審で取調べた全証拠及び当審における医師金子嗣郎作成の鑑定書(以下単に鑑定書と称する)並びに同人の当審における供述によっても,被告人はアルコール嗜癖,性格異常傾向,てんかん性気質,軽愚程度の知能低格者,未熟・短絡的性向は認められるものの,それ以上に精神病の症状は持たないことが認められるのであるから,所論指摘の精神分裂病等の病気を前提とする主張は,その前提を欠くものであり,又,鑑定書及び金子の右供述によれば,病的酩酊の症状を有することについても否定されているのであるから,これと同視すると思われるアルコール中毒症状の主張も,その前提を欠くことになる。したがってこの点の所論も理由がない。
しかしながら,鑑定書において金子医師は,被告人の本件犯行当時の精神状態について,「被告人は,複雑酩酊の状態であり,意識野の狭窄,運動失調の傾向もあり,事の是非善悪を判断し,その判断にもとづいて行動する能力を著しく低下していた」と判断しているので,この鑑定の結果について検討する。証人金子嗣郎の当審における供述によれば,その鑑定においては,(1)飲酒テストを重要視したこと。ところが右テストにおいて被告人は本件犯行当時自ら飲んだことを認めている飲酒量より少い飲酒量によって泥酔状態となったところから,本件犯行当時の飲酒量に疑いを抱き,被告人がその当時に飲んだ酒量は,その自供するところより少量であったものと推測し,それなのにそれ以上飲んだとしている被告人の自白について,右飲酒量のみならず,犯行の態様の全般に亘って,その自白の真実性に疑いを持ったこと,(2)そのことから本件における被告人の本件犯行前後の言動については,原審記録とくに被告人の自白によらず,そのほとんどを鑑定人に対する被告人の陳述をもって鑑定の基礎資料としていること,(3)又,被告人の精神状態については,原審においてそれまで被告人を診察した医師の診断の結果等が証拠として提出されているが,鑑定人としては,それらの医師から新に資料を取寄せるとかの方法をとらず,原審記録中の診断の結果等の文書を参考にしただけであること,がそれぞれ認められる。そのような方法から,鑑定結果の「本件犯行当時,被告人は複雑酩酊の状態であり,意識の狭窄,運動失調の傾向もあり」との結論は,鑑定人に対する被告人の陳述と飲酒テストの結果の「脱制止,攻撃性,及び運動失調状態となり,泥酔し,あとに島嶼状の記憶脱落がみられたこと」の総合判断であるとするものである。しかしながら,被告人の右陳述は,明かに客観的事実に反しているものである。すなわち,鑑定人が鑑定結果の基礎事実として重要視している本件火災の出火の方法原因について,右陳述において,被告人がろうそくと線香を仏壇に立てた旨を述べたところから,鑑定人は飲酒テストの結果等も総合して,その際被告人は,酩酊のための運動失調,意識野の狭窄が生じていて,その立て方が不安定などのため,それが倒れるとかのことより,右ろうそくと線香が出火の原因となった失火であると推論し,「意図的に灯油をまいて放火した」との原判示の事実を否定しているのである。だが,もし右推論のとおりであるならば,右仏壇附近が発火点となるはずであるから,当然のことながら最も焼燬していなければならない理であるのに,関係証拠によれば,本件の仏壇の下附近はほとんど焼燬していないことが認められるところから明らかなように,右の部分の被告人の陳述は,本件の客観的事実と反しており誤りであることが明らかである。しかも,被告人は原審で取調べた各自白調書において,右のようなろうそくと線香云々のことについては述べておらず,さらに当審に提出した供述書においても右の事柄を述べていないのである。以上の点から,鑑定人は,客観的事実に合致しない右陳述による被告人の本件犯行当時の「行動」なるものを前提として,被告人の精神状態を判断しているものというべく,その鑑定の方法において著しく妥当を欠くといわざるをえないから,その鑑定の結果すなわち,被告人が本件犯行の当時複雑酩酊の精神状態にあったとする部分は,到底採用することができない。
かえって,鑑定人金子は,当審において,本件犯行当時における被告人の行動状況が原判示のとおりであり,その細部が検察官及び司法警察員に対する自白のとおりであるならば,本件犯行当時の被告人の酩酊は複雑酩酊とはいえず,その言動につき島状健忘状態も存しないことを肯認しているのであって,さらに,関係証拠によれば,原判決が正当に判示しているように,本件犯行及びその前後について被告人は,一部の記憶脱落もなく,細部に至るまで記憶しており,かつその動機,犯行の態様,その後の行動において,合理的一貫性があり,精神異常又は酩酊による異常又は不合理な言動はなんら見当らないことが認められるのである。してみれば,本件犯行当時被告人が相当酩酊していたとはいえ,事物の是非善悪を判断する力及びその判断に従って行動する能力を著しく欠いた心神耗弱の精神状態にはなかったことが明らかである。